当社近郊の伝統産業
- コラム
御香宮神社
「日本名水100選」の第1号に選ばれた御香水が湧くことで有名な神社で、水が湧き出している本殿の左手前には、水を汲みに来る人が絶えません。
貞観4年(862年)に、この地に清泉が湧き出し、これを飲むとどんな病人にも平癒したことから、この香水を祀り、御香宮と称した説をはじめ、始まりには諸説あるようです。
文禄年間には、豊臣秀吉が伏見城を造営するにあたって、鬼門の守護神としてこの社を大亀谷に移したが、慶長10年(1605年)に徳川家康によって、もとあった現在の場所に戻されたそうです。
その後、徳川御三家は、その藩祖が伏見で生まれたため、当社を産土神として崇敬するようになったようです。
伏見城の大手門を移した表門、華麗な彫刻が施されている本殿などが、重要文化財に指定されています。
祭礼は例大祭(4月17日)、芽ノ輪(ちのわ)の神事(7月31日)、伏見祭(10月10日)などがあり、多数の参拝者で賑わいます。
伏見の伝統産業「伏見酒」
当社が所在する伏見区では、酒造が盛んな地域です。
伏見は酒蔵の町、酒の町とも呼ばれています。
かつて伏見は、「伏水」と書かれていたほど、豊かな地下水に恵まれたところです。
この伏流水が酒づくりの伝統を育てました。
歴史的に見ると、伏見で酒造が本格的に開始されたのは、江戸初期からと言われています。
寛永二年(1625年)伏見奉行であった小堀遠州が酒造米を開発し、明暦三年(1657年)に初めて酒造株が許可され、約80件ほどが加入して酒造屋仲間を組織しました。このときには、約1万5600石余を醸造しています。
以後、酒造高は、幕府の意向で左右されたようです。
明治維新の鳥羽・伏見の戦いでは町の大半が焼失し、生産高も1800石となってしまいましたが、後に回復し、明治20年代には、3万2千石以上に増加しました。
明治22年には国鉄東海道線が開通しました。
このことは、伏見の酒造業にとって一つの大きな出来事でした。
この東海道線によって東京方面へ進出し、伏見の酒が全国的に有名になったからです。